大坪義明の激動の半生

大坪義明は、「スーパー」を展開する会社の代表取締役社長です。彼の父親である大坪義正が設立した会社を継ぎ、大きく発展させたことは大変有名です。そんな彼の半生をご紹介します。幼少時の大坪義明は、コンピューター少年として知られていました。当時普及しつつあったパソコンを父親に買ってもらうと、周囲も驚くほど熱中しました。大坪義正は読書などを勧めたかったそうですが、母親が子どもの自主性を重んじる方針で、大坪義明はコンピューターとともに少年時代を過ごしました。しかしその反動なのか、体が弱く、疲れやすい体質だったとされています。その体験が食事の重要性を彼に意識させ、のちに質の高い食品の販売を重視させたといわれています。

高校を卒業した大坪義明は、大学の経営学部に進学しました。彼の意思では理系の学部を希望していたようですが、家業を継がせたい父親の方針で経営学部を選んだとされています。もっとも、大学では勉学にあまり集中せず、サークル仲間とコンピューターを操作する毎日だったようです。大学3年のとき、交換留学でアメリカへ留学しています。期間の短い留学でしたが、海外でいろいろな価値観を持つ学生と知り合ったり、アメリカのスーパー事情を体験したのは刺激的だったそうです。ちなみに、この留学のときに現地で知り合った日本人の女子学生が現在の夫人です。どのようなきっかけで知り合ったのか、詳細は語られていません。

大学卒業後、大坪義明は父親の会社である株式会社大坪に就職します。父親の会社に入社することは異論はなかったようですが、入社するとすぐに会社の仕事の進め方に異論を持つようになったそうです。入社後数年は、店舗で平社員として勤務しました。周囲は社長の息子だと知っていましたが、あえて特別扱いはしなかったそうです。現場で経験を積むうちに、さらに効率的な店舗運営ができることを大坪義明は理解し、改善の提案をしました。しかし当時の会社は社長である父親の権力が強く、その意見が採用されることはありませんでした。しだいに居心地が悪くなってきた大坪義明は、ついに会社を辞め、友人と農作物を販売する小さな会社を立ち上げました。地方の農家から野菜や果物を直接仕入れて都心で販売する店を出したのです。仕入れや売り上げの管理は大坪義明のコンピューター経験が役に立ちました。なにしろ社員が少ないので、ひとりで何役もこなす必要があったのです。その会社は少しずつ店舗数を増やし、農産物だけではなく海産物も扱うようになりました。会社の立ち上げ当初は食べていくのがやっとの収入しか確保できず、閉店の危機もあったそうですが「それも楽しい思い出」と語っています。

その会社が順調に伸び始めたころ、転機が訪れました。父親の会社の経営に問題が発生し、急速に規模を縮小していたのです。父親の会社を辞めたあとは親子のふれあいはほとんどなかったそうですが、ここで久しぶりに親子が対面します。父親である大坪義正は、息子が自分の店を順調に経営しているのを知っており、スーパーに戻ってほしいと頭を下げたのです。そのときの父親の申し出について、大坪義明は「大変に驚いたが、なぜか素直に受け入れていた」と語っています。復帰することにした彼は、彼と友人で立ち上げた会社をスタッフも含めてスーパーに吸収させ、新設した経営企画部の部長として仕事を始めました。その後の活躍は改めて触れるまでもありません。経営の事実上のトップとして売り上げを回復させ、店舗数も増加させました。そして社内での立場も部長から専務へ、そして社長へとステップアップし現在に至るのです。「質の高い食事が良い人間を作る」という方針はこれからも重視されます。

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